父の死の2か月前から・・・
この日記は2018年6月に書いたものです。
簡易的にメモ書き程度に記載していたものを掲載したので、書き方は端的になっている部分があります。
2018年6月初旬
3人でリビングで集まって父方の祖父母の命日の話をしていた(命日6月12日)
その時に父親が「俺の命日は8月かな」とぼそっと言った。
何と無くそのあたりになると予想はできるが、本人もそこら辺は認識してたようだった。
抗がん剤が効かなくなって、治療を止める選択に迫られている。
本人も口数が大幅に減って、気力が無くなってるように思えた。
父から最後の本格的な遺言を言われた。
「もうお父さんダメだから、言っておきたいことがある」
「葬式代はかかってしまうけど、生命保険から400万出るから、心配しないで」
「葬式で迷惑をかけちゃうけど、ごめん」
「この家のこと、お母さんのことは頼むな」
これで終わってしまって、こんなことだけ?お金のことなんかどうでもいい。
もっと話すこととかないの?ともどかしい気持ちになったことを覚えている。
でも本人にそれは言えない。
なぜなら死を意識させてしまうし、悲しい思いにさせてしまうから。
本人なりにもう心の持って生き方を探り終えていると思ったから。
2018年6月29日
とうとう腹水がたまってるとの診断がされた。
抗がん剤を止めると10日~2週間で亡くなるという新聞記事が多く、急速に進むのかと母親と自分で話していた。
でも父親の場合は進行が遅いのか、6月初旬から抗がん剤をやめているが、1か月近くまだ歩けてほんの少し食べられる状態だ。
父親は「抗がん剤はやめる。静かに逝きたい」という考えになったようで、本当に鬱状態になってしまった。
これまでは闘っていたが、もう選択肢がなく奇跡も起きないことが分かったためだ。。
何かやりたいことや思い出ビデオを見なくてよいかと母親に聞いたが逆効果とのこと。。
毎日、なぜこんな絶望感を味わうことになるのか。
もちろん辛いのは本人。
それを考えるからさらに辛い。
2018年7月1日
日曜日の夜遅く、父親がずっと下血と吐血をしていたことを本人が打ち明けた。
そしてそれが止まらなくなったことから、
気分が悪くなり救急車を呼ぶことになった。一歩遅かったらアウトだった。
初めての急変で本人も「こんなに早くなるとは思わなかった」と。
このときはW杯の試合中で忘れもしない。ほんとにこれでお別れかと思った。
次の日会社を休んだ。
2018年7月中旬
救急車で運ばれ、非常に危険な状態で救急車が到着する前に、玄関で意識を失って倒れた。
その後意識を回復して、本人も非常に動揺していて死を覚悟したことは表情から読み取れた。
絶望感だけでなく、神様はなぜここまでひどいことをするんだ。。
そんなことをずっと考えていた。
もう逝くんだから、こんな苦しみや恐怖、絶望感を味わうようなことをしないでほしい!何を悪いことをしたんだ!
怒りも覚えた。
その後、行きつけの病院で入院し、緊急で輸血をすることになった。
そして止血も施したが、その最中に「どこから出血しているか分からない、もしまた出血したら・・・覚悟して欲しい」と最後通告された。
でも本人のために、もう苦しまないで、ここで亡くなるのも本人にとっては幸せなのかもしれない・・と心では思っていた。
それほどまでに闘病生活と絶望感、恐怖感が強く、ここ1年は地獄のような人生だったからだ。
誰かのブログでも言っていたが、「癌になって良いことなんで1つも無い。生きたくて悔しい。当たり前に続くと思っていた人生が終わるなんて受け入れられない」と。
本人のことを考えると家族も辛くて辛くて、今までずっと一緒に幸せな生活をしていて、喧嘩も多くしたけど、心の底から憎むことなんてなくて、まだ10年、20年生きていくものだと思っていた。
そんなことを考えているうちに、何とか止血できて一命を取り留めた。
数日に一度はお見舞いに行くことにした。
もう父はいつもの父ではなくなっていて、それは投与されたモルヒネのせいなのか、あまりにショッキングな出来事のせいなのか、ほとんど口を利かなくなってしまった。
毎日衰弱していく姿は見ていて苦しかったが、ここに来て数日単位で拍車がかかっているように思えた。
家族も辛いが、仕事もあるし、生活をしていかなければならない。
でも、それがなぜか罪悪感でいっぱいだった。
家族が恐怖と絶望で死に向かっているのに、自分は何にも痛くなくて恐怖も感じない、
普通に仕事をしている?
何だか自分が許せない気持ちもあった。
7月中旬になると、長く入院していた病院から、家族だけが呼ばれた。
「もう治療できない、治療の方法が残っていない」と言われ、肝臓のCTを見るともう半分以上がボロボロで危ないとのこと。
本人の意思で、最後は自宅ではなくて、ホスピス(緩和ケア)を希望した。
自宅は迷惑をかけるということも考えたのだろうか。。
親は「迷惑はかけない」ということをしきりに言っていた。
だが、迷惑なんて考えなくていいよ、そんなことより自分を優先して。
声は出なかったが、いつもその気持ちでいっぱいだった。
7月末
緩和ケアからは、「もう最後のお出かけになるかもしれないので、この土日どこか行くのであれば最後にどこか出かけてください」と言われる。
ここまで父も本当に耐えてきたけど、もう本当に秒読み状態に入ってきたのか・・・
そう考えると、最後に本当に何をすべきなのか、心残りが無いように・・・と焦った。
でも本人の気持ちを考えるともう生きられないのに、何をしても面白くないし、
思い出の場所に行ったらもっと辛い思いをさせてしまうのではないか・・・
何を考えても、結局自分自身の後悔が無いように・・・が優先になってしまっていることに気付く。
思えばつい8年前まで祖父も祖母も元気で、認知症になったときでも自分が思い出話などしようと思わなかった。
忙しくて自分を優先していたから。
亡くなってから、本当に後悔した。
もっと色々話せばよかった、何か伝えたいことは無かったのか。
それから、もう後悔したくないと思いに駆られていた最中に、この病気が分かったのだ。
そして亡くなる2週間前、車椅子の父親を連れて、まずは自宅に到着。
しかし父は「運転まだできるよ」「歩けるよ」と自信満々だったのに、自宅の階段が上れなかった。
自分からすればたいしたこと無いと思っていたが、本人は相当にショックだったようで、刻一刻と悪化していく症状にさらに絶望感と恐怖感を感じたと思う。
ようやく2階に着いていつもの座椅子に座った。
最後にこの座椅子に座っていたのは、あの吐血する日だ。
あれからこんな状態でここに座ることになるとは誰も思わなかった。
悲しい思いしかない。
もうすぐ亡くなるときに何を思うのか。
もう自宅も愛することができなくなっていたと後で聞いた。
膵臓癌の症状なのだろうが、あらゆることが億劫で無関心になっていった。
その後、幼いころに住んでいたマンションの駐車場に車を泊めた。
自分自身も20年ぶりくらいに来た。
私自身の最初の記憶であるマンション。父との楽しかった思い出がよみがえる。
ただ父は無言だった。
連れてこなければ良かったのか。もしくは自宅で階段が上れないことがショックだったのか。
複雑な思いだった。このときどう考えていたのか。
その後、最後の食事、本人が焼肉が食べたいと言うので焼肉に連れて行った。
私が20歳のころにアルバイトしていた安楽亭で、20歳のころに若かった親とここで焼肉を食べた。
それから15年。こんな悲しい日にここに来るとは無念で仕方ない。
(これを書いているときも涙がこぼれてきた)
いつも親と一緒に外食とか、庶民的なことで当時は当たり前で何も思わなかったけど、今になって思う、あの頃が楽しかったし、あれが幸せなんだと。
親も自分も次の日会社で、余裕が無くて喧嘩も多かったけど、あの貴重な時間に戻りたい。
そして時間をゆっくりかみしめたい。
もう何を食べても体の栄養にはならず、癌の進行を早めるだけと言われていたが、もう本当にこれが最後。
食べられることもできなくなるだろう。
それでも意外と食べて、まだ味を感じる力は残っていて「美味しい」と言ったのが忘れられない。
そして病院に送っていった。
8月初旬
意識障害が出始め、他の人のブログの通り、もう時間がないと悟った。
外は異例のように猛暑が続く。
緩和ケア内で「カキ氷祭り」というのが開催され、各ベッドにカキ氷が振舞われた。
父も食べた。
本来なら夏の思い出として、みんなで楽しく食べたかったかき氷。
胸が破裂しそうな思いだった。
さらに花火大会が病室から見える。
父は見たくないと言う。
テレビも見なくなった。
父はいつも先のことばかり考える性格だった。
お金のこと、将来のこと・・・
だから人一倍、この状況が辛いと思う。
一気にうつ病になる気持ちも分かる。
そして最後の日曜日、これが最後になることは分かっていた。
父が亡くなる、父との時間を確保するために会社は1ヶ月休んだが、次の1週間だけは行かなければならない。
ただ父は1週間は持たない。
父は最期に握手を求めた。
涙をこらえて、子供のころ以来の握手をした。
30年も握手していなかった、なんでだ。。
なんでもっと色々やれなかったのか。
なんでこんなことになってしまうのか。
なんで死ぬんだよ!まだ話すこととか教えてもらうことたくさんあるよ!
でもどうしようも、何をしても、何が起きても、事態は変えられない。
結局何もできないんだ。
虚無感も覚えた。
亡くなる3日前の出来事だった。