ステージ4Bの父の膵臓癌闘病記と、その後の人生

父の膵臓癌闘病記と思い出や後悔、遺された家族の気持ちを綴ります

親が亡くなってから虚無感、睡眠障害、精神疾患、そして退職。

何故こんなに親が亡くなってからも虚無感や違和感に囚われているのだろうか・・・

そう考えたとき、親がご飯を食べられなくなって日々弱っていく姿を見ていくのも

精神的なショックが大きかったし、耐えられなかったが、親が亡くなった後にさらに、

もっと大きなショックが来たように思える。

 

昨日までずっと子供のころから普通に話していた親の顔に白いタオルをかけられたとき・・・

言いようのないショックが襲った。

その時考えたのは、「親は自分がこんなことされていることをどう思ってるんだろうか」とひたすら考えていたのを覚えている。

そしてあり得ない光景だし、ずっと何かの間違いなのではないか。

いきなり起きだして「まだ死んでないよ」と冗談を言うのはいつなのか?と、

待っていたような気がする。

時間が経つにつれ、「本当に?まさか?」と現実が少しずつ迫ってきている感覚だった。

心の奥底では「亡くなる」ということを理解しているつもりでも、

表面的なところでは実感も無いし、受け入れなど到底できていない。

 

親が亡くなってから自分の人生も大きく変わった。

虚無感から仕事が続かなくなり、精神疾患を抱え、そして辞めてしまった。

亡くなって3か月ほどは何故か実感がなかったのか、仕事をすることができた。

 

しかし、夜になると毎回亡くなった親の最後のこと、どんなに無念だったかを考えると少しずつ眠れなくなってしまった。

 

それでも仕事は奇跡的に在宅も許されるような、出社しなくてもばれない環境だったので、その期間は何とか過ごすことはできた。

簡単に言うとあまり仕事をしなかったから、やり過ごせた。

 

しかしプロジェクトが変わり、朝から夜まで激務の環境に置かれるようになった。

(仕事は激務で有名な外資コンサルティング

 

この精神状態で耐えられるわけもなく、睡眠障害は日々酷くなるばかりだ。

親は無念でどんなに恐怖を味わって、亡くなっていったのか。

それを考えると、何事もなかったかのように仕事を続けることはできなかった。

 

家族が亡くなっても仕事を頑張れる人が大多数だと思うが、自分はそれができなかった。

 

特に転職したばかりで覚えることもたくさんあったので、自分のキャパが限界を超えていたのかもしれない。

 

そしてある時を境に「プツン」と糸が切れてしまい、「もう会社に行くのをやめよう」と決心して、心療内科にお世話になった。

 

精神疾患名は「適応障害」。

 

適応障害とは新型うつ病の一種で、ある特定の事柄に適応ができなくなり、

特定の事柄を体験、体験予定になると様々な疾患が現実的に発生してしまうとのこと。

 

そんなこともあり、会社は退職することにした。

 

まだしばらく立ち直れそうにないのでゆっくりと精神的な療養をしていく予定だ。

ウィルスによる癌発症と統計的分析

一部の癌ではウィルスによる癌発症が分かってきています。

 

胃がんはピロリ菌が何らかの原因となることが多く、その他でもヒトピューマウィルスなど、癌の原因になるウィルスは発見されてきています。

もちろんわたしはそこの第一人者ではないので、専門的なメカニズムなどは分かりません。

ただ素人にもできることは、統計的に分析することはできるのではないかと思っています。

これまでは生活習慣が主に原因とされてきましたが、現代では生活習慣が直接の理由ではなくではなく、化学物質やウィルスが直接の原因で、その原因を免疫の大小で食い止められるかどうか・・・ということが大きく理由になっているのではないかと仮説を立てています。

昨今AIやビッグデータが取りざたされている中、やはりこういう理由が明確ではないものをビッグデータから導きだすことができるのではないでしょうか。

 

 

 

癌に効く免疫療法と健康食品

巷では免疫を向上させる色々なサプリや薬、非認可の直輸入のものが紹介されています。

 

未だにこのブログを見て直接非認可の薬の紹介をしてくる方もいます。

 

その方々は悪意はなく、人助けの意味でやっている場合は仕方ありません。

 

ただ・・・私の統計的な視点から言います。

 

ほぼ効果はありません。

効果が実証されたというデータも当てになりません。

食事療法やサプリでは癌の治療はよほどのことがない限りは治癒できません。

 

もちろんすべてを否定している訳ではありませんが、

統計的に効くものは今のところないのです。

 

昨今のオブジーポは体内に直接免疫力を高める薬を投入して非常に高い効果を発揮していますが、

これは直接体内に入れて何度も実証されたのに日本では薬代の関係でなかなか認可が出なかったというものです。

 

(オブジーポの解説抜粋)

体内でがんを攻撃する免疫細胞、T細胞が作り出すPD-1という物質に、オプジーボ®が結合します。これにより、PD-L1とPD-1が結合できなくなり、T細胞は免疫機能を落とすことなくがん細胞に攻撃し、がん細胞の増殖を抑制することができます。つまり、オプジーボは免疫機能にブレーキをかける物質にピンポイントで作用し、T細胞ががん細胞を攻撃する力を高める、いわゆる免疫力を高める薬剤ということになります。

 

 

なぜこんなことを言うかというと、

神頼みや何かにすがりたい気持ちの患者に、詐欺まがいの商売をする人を許せません。

このような悪徳業者はしつこく、人の気持ちを聞くこともせず、一方的な価値観を押し付けるという共通の思想があり、害でしかないのです。

 

このような悪人が駆逐されることを切に願います。

(もちろん本当に信じて売っている方は仕方ありません)

 

ステージ4Bとは

今日以下のYAHOO記事を見ました。

headlines.yahoo.co.jp

 

ここでは乳がんでステージ4Bで骨に転移しても12年生きることができたということが記載されていました。

つまり癌は転移しても致命的な癌でない限りは末期でも長く生きられるということです。

この方はその後去年スキルス胃がんと診断されてしまい、致命的な癌になってしまったそうです。

 

癌の治療法は進歩しながらも、転移や致命的な癌に関してはまだまだ一向に進んでいません。

素人では治療法は分かりませんが、一方でビッグデータや統計を取ったら、

何をどうすればどのくらい生きられるかというデータが出そうですね。。

 

膵臓癌とスキルス胃がんは若い人でもかかる致命的な癌です。

そして治療法はなく、5年生存率が5%を切る・・・

なってしまったら本当に悲しいことしかありません。

 

ただし、その他の癌であればまだ可能性はあるということを証明した記事なので、

致命的な癌でなければ、ステージ4Bで転移してても勇気づけられるのではないでしょうか。

 

癌でなくても10年生きられるかなんて誰にも分かりませんからね。。

 

遺された家族

4ヶ月間ブログの更新が止まっていました。

 

残された遺族にも容赦ない現実が待っており、

生きていかなければならない。

どんな辛い状況でも、短期間で乗り越えていかなければならない、

何ごともなかったかのように普通に働いて・・・

 

 

父の思い出、闘病、そして死。それは今でも何も変わっていません。

父の遺してくれたもの、父の死を無駄にしないよう、残された家族は生きていきます。

父が亡くなったのでこれで終わり・・・ではこの悲劇的な病気について何も分からないままだし、父の無念を考えてもここで終わりたくありません。

 

 

ひとつ確かなことがあります。

 

父の死後、遺された家族は激変しました。

 

母親はうつ病に近く、私はPTSD(診断名は適用障害)と診断され、

不眠の状況が続いています。

 

毎日父の苦しかったであろう気持ち、死への恐怖、死んだら何もなくなる・・・

この世は虚構でできている・・・など考えると眠れません。

 

考えないようにすればよいと思ってても、それができないのです。

 

父が生きたくても生きられなかったのに、自分だけ普通に過ごしてて良いのか。。

 

生きるためとは言いつつも、嫌な気持ちで、普通に仕事しているのが時間の無駄じゃないのか。。

そもそも気持ちを切り替えて仕事で新しく覚えることなどできるはずありません。

 

 

わたくしごとですが、仕事は簡単ではなく頭を120%使い、激務な職場です。

こんな不眠や不安障害のまま続けることなどほぼ不可能です。

こんな状況なのでミスも多発する悪循環に陥ります。

 

 

 

 

父は膵臓癌と診断されたとき、どんな気持ちだったのだろう。

死ぬときは何を思ったのだろう。。

近くに居てほしかったのだろうか。。

最期は寂しいと感じて一人ぼっちで死んでしまったのだろうか。。

 

毎日毎日これを繰り返し考えています。

 

 

今回は思いのままを綴りましたが、

こういう気持ちであることをどうしても書き留めておきたいと思い、投稿しました。

 

次回のブログは膵臓癌に関して為になる記事を投稿します。

 

 

あまり記事を書く気力がない。

(これは現在2018年10月4日の心境です)

 

父親が亡くなってから、いや膵臓癌になってから自分の人生観は変わったし、

家族もみんな人生観が変わったと言っていた。

亡くなってからは、本当にやる気が出ないし、奇跡が起こらないことも分かったし、

無力感と、人生に関する虚無感で、そして何を言っても本当の苦しみは本人や家族にしか分らないこと。

父親はいずれ誰からも生きていた証拠を忘れられてしまうのか。。と。

 

65年間も生きてきて、最後は必死に戦ったのに、この結果は残酷すぎる。

 

父親が本当に死ぬとは思わなかった。今でも実感がない。

ただ2か月も経つと・・・居ないのが普通になりつつあり・・・それが嫌だ。

父親と一緒に見たTVや映画など。。

思い出すだけで辛い。

 

父の死の2か月前から・・・

この日記は2018年6月に書いたものです。

簡易的にメモ書き程度に記載していたものを掲載したので、書き方は端的になっている部分があります。

 

 

2018年6月初旬

3人でリビングで集まって父方の祖父母の命日の話をしていた(命日6月12日)
その時に父親が「俺の命日は8月かな」とぼそっと言った。
何と無くそのあたりになると予想はできるが、本人もそこら辺は認識してたようだった。
抗がん剤が効かなくなって、治療を止める選択に迫られている。


本人も口数が大幅に減って、気力が無くなってるように思えた。

 

父から最後の本格的な遺言を言われた。

「もうお父さんダメだから、言っておきたいことがある」

「葬式代はかかってしまうけど、生命保険から400万出るから、心配しないで」

「葬式で迷惑をかけちゃうけど、ごめん」

「この家のこと、お母さんのことは頼むな」

 

これで終わってしまって、こんなことだけ?お金のことなんかどうでもいい。

もっと話すこととかないの?ともどかしい気持ちになったことを覚えている。

 

でも本人にそれは言えない。

なぜなら死を意識させてしまうし、悲しい思いにさせてしまうから。

 

本人なりにもう心の持って生き方を探り終えていると思ったから。

 

 

2018年6月29日

とうとう腹水がたまってるとの診断がされた。
抗がん剤を止めると10日~2週間で亡くなるという新聞記事が多く、急速に進むのかと母親と自分で話していた。
でも父親の場合は進行が遅いのか、6月初旬から抗がん剤をやめているが、1か月近くまだ歩けてほんの少し食べられる状態だ。
父親は「抗がん剤はやめる。静かに逝きたい」という考えになったようで、本当に鬱状態になってしまった。
これまでは闘っていたが、もう選択肢がなく奇跡も起きないことが分かったためだ。。
何かやりたいことや思い出ビデオを見なくてよいかと母親に聞いたが逆効果とのこと。。

 

毎日、なぜこんな絶望感を味わうことになるのか。

もちろん辛いのは本人。

それを考えるからさらに辛い。

 

 

 

2018年7月1日

日曜日の夜遅く、父親がずっと下血と吐血をしていたことを本人が打ち明けた。

そしてそれが止まらなくなったことから、
気分が悪くなり救急車を呼ぶことになった。一歩遅かったらアウトだった。
初めての急変で本人も「こんなに早くなるとは思わなかった」と。
このときはW杯の試合中で忘れもしない。ほんとにこれでお別れかと思った。
次の日会社を休んだ。

 

 

 

2018年7月中旬

救急車で運ばれ、非常に危険な状態で救急車が到着する前に、玄関で意識を失って倒れた。

その後意識を回復して、本人も非常に動揺していて死を覚悟したことは表情から読み取れた。

絶望感だけでなく、神様はなぜここまでひどいことをするんだ。。

そんなことをずっと考えていた。

もう逝くんだから、こんな苦しみや恐怖、絶望感を味わうようなことをしないでほしい!何を悪いことをしたんだ!

怒りも覚えた。

 

その後、行きつけの病院で入院し、緊急で輸血をすることになった。

そして止血も施したが、その最中に「どこから出血しているか分からない、もしまた出血したら・・・覚悟して欲しい」と最後通告された。

 

でも本人のために、もう苦しまないで、ここで亡くなるのも本人にとっては幸せなのかもしれない・・と心では思っていた。

それほどまでに闘病生活と絶望感、恐怖感が強く、ここ1年は地獄のような人生だったからだ。

 

誰かのブログでも言っていたが、「癌になって良いことなんで1つも無い。生きたくて悔しい。当たり前に続くと思っていた人生が終わるなんて受け入れられない」と。

 

本人のことを考えると家族も辛くて辛くて、今までずっと一緒に幸せな生活をしていて、喧嘩も多くしたけど、心の底から憎むことなんてなくて、まだ10年、20年生きていくものだと思っていた。

 

そんなことを考えているうちに、何とか止血できて一命を取り留めた。

 

数日に一度はお見舞いに行くことにした。

 

もう父はいつもの父ではなくなっていて、それは投与されたモルヒネのせいなのか、あまりにショッキングな出来事のせいなのか、ほとんど口を利かなくなってしまった。

 

毎日衰弱していく姿は見ていて苦しかったが、ここに来て数日単位で拍車がかかっているように思えた。

 

家族も辛いが、仕事もあるし、生活をしていかなければならない。

でも、それがなぜか罪悪感でいっぱいだった。

 

家族が恐怖と絶望で死に向かっているのに、自分は何にも痛くなくて恐怖も感じない、

普通に仕事をしている?

何だか自分が許せない気持ちもあった。

 

7月中旬になると、長く入院していた病院から、家族だけが呼ばれた。

「もう治療できない、治療の方法が残っていない」と言われ、肝臓のCTを見るともう半分以上がボロボロで危ないとのこと。

 

本人の意思で、最後は自宅ではなくて、ホスピス(緩和ケア)を希望した。

 

自宅は迷惑をかけるということも考えたのだろうか。。

親は「迷惑はかけない」ということをしきりに言っていた。

 

だが、迷惑なんて考えなくていいよ、そんなことより自分を優先して。

声は出なかったが、いつもその気持ちでいっぱいだった。

 

 

7月末

緩和ケアからは、「もう最後のお出かけになるかもしれないので、この土日どこか行くのであれば最後にどこか出かけてください」と言われる。

 

ここまで父も本当に耐えてきたけど、もう本当に秒読み状態に入ってきたのか・・・

そう考えると、最後に本当に何をすべきなのか、心残りが無いように・・・と焦った。

 

でも本人の気持ちを考えるともう生きられないのに、何をしても面白くないし、

思い出の場所に行ったらもっと辛い思いをさせてしまうのではないか・・・

何を考えても、結局自分自身の後悔が無いように・・・が優先になってしまっていることに気付く。

 

思えばつい8年前まで祖父も祖母も元気で、認知症になったときでも自分が思い出話などしようと思わなかった。

忙しくて自分を優先していたから。

亡くなってから、本当に後悔した。

もっと色々話せばよかった、何か伝えたいことは無かったのか。

それから、もう後悔したくないと思いに駆られていた最中に、この病気が分かったのだ。

 

そして亡くなる2週間前、車椅子の父親を連れて、まずは自宅に到着。

しかし父は「運転まだできるよ」「歩けるよ」と自信満々だったのに、自宅の階段が上れなかった。

自分からすればたいしたこと無いと思っていたが、本人は相当にショックだったようで、刻一刻と悪化していく症状にさらに絶望感と恐怖感を感じたと思う。

 

ようやく2階に着いていつもの座椅子に座った。

 

最後にこの座椅子に座っていたのは、あの吐血する日だ。

 

あれからこんな状態でここに座ることになるとは誰も思わなかった。

悲しい思いしかない。

 

もうすぐ亡くなるときに何を思うのか。

もう自宅も愛することができなくなっていたと後で聞いた。

 

膵臓癌の症状なのだろうが、あらゆることが億劫で無関心になっていった。

 

その後、幼いころに住んでいたマンションの駐車場に車を泊めた。

自分自身も20年ぶりくらいに来た。

 

私自身の最初の記憶であるマンション。父との楽しかった思い出がよみがえる。

ただ父は無言だった。

連れてこなければ良かったのか。もしくは自宅で階段が上れないことがショックだったのか。

複雑な思いだった。このときどう考えていたのか。

 

その後、最後の食事、本人が焼肉が食べたいと言うので焼肉に連れて行った。

私が20歳のころにアルバイトしていた安楽亭で、20歳のころに若かった親とここで焼肉を食べた。

 

それから15年。こんな悲しい日にここに来るとは無念で仕方ない。

(これを書いているときも涙がこぼれてきた)

 

いつも親と一緒に外食とか、庶民的なことで当時は当たり前で何も思わなかったけど、今になって思う、あの頃が楽しかったし、あれが幸せなんだと。

 

親も自分も次の日会社で、余裕が無くて喧嘩も多かったけど、あの貴重な時間に戻りたい。

そして時間をゆっくりかみしめたい。

 

もう何を食べても体の栄養にはならず、癌の進行を早めるだけと言われていたが、もう本当にこれが最後。

食べられることもできなくなるだろう。

 

それでも意外と食べて、まだ味を感じる力は残っていて「美味しい」と言ったのが忘れられない。

 

そして病院に送っていった。

 

 

8月初旬

意識障害が出始め、他の人のブログの通り、もう時間がないと悟った。

 

外は異例のように猛暑が続く。

緩和ケア内で「カキ氷祭り」というのが開催され、各ベッドにカキ氷が振舞われた。

父も食べた。

本来なら夏の思い出として、みんなで楽しく食べたかったかき氷。

胸が破裂しそうな思いだった。

さらに花火大会が病室から見える。

 

父は見たくないと言う。

テレビも見なくなった。

 

父はいつも先のことばかり考える性格だった。

お金のこと、将来のこと・・・

だから人一倍、この状況が辛いと思う。

一気にうつ病になる気持ちも分かる。

 

そして最後の日曜日、これが最後になることは分かっていた。

父が亡くなる、父との時間を確保するために会社は1ヶ月休んだが、次の1週間だけは行かなければならない。

ただ父は1週間は持たない。

 

父は最期に握手を求めた。

涙をこらえて、子供のころ以来の握手をした。

 

30年も握手していなかった、なんでだ。。

なんでもっと色々やれなかったのか。

 

なんでこんなことになってしまうのか。

 

なんで死ぬんだよ!まだ話すこととか教えてもらうことたくさんあるよ!

 

でもどうしようも、何をしても、何が起きても、事態は変えられない。

 

結局何もできないんだ。

 

虚無感も覚えた。

 

亡くなる3日前の出来事だった。